魚沼産コシヒカリは、今や消費者や卸等の皆様から高い評価を得ていますが、県内・全国に普及・定着するまでには、倒伏しやすい欠点の克服など、様々な課題を克服した関係者の努力がありました。ここでは、コシヒカリが新潟県の主力品種に成長するまでの歴史と、魚沼産コシヒカリの誕生秘話をご紹介します。
適地適作の典型例 | コシヒカリが魚沼の地に根付き、50年の長きにわたって生き永らえ、また今後もコシヒカリとしてその生命を伸ばそうとしています。 しかし、コシヒカリの誕生は決して平坦ではなく、いくつもの幸運と偶然が重なりあってのことでした。その後も紆余曲折を経ての発展でしたが、それには、コシヒカリのすぐれた食味と、育成に魚沼の地が合っていたことが最大の要因でした。 「魚沼産コシヒカリ」は、文字通り適地適作の典型例ですが、その発展の歴史を年表風にまとめてみました。 |
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魚沼産コシヒカリ 発展の歴史 | 1944年(昭和19年)- 新潟県農業試験場で、高橋浩之氏らにより、農林1号・農林22号を父母に交配。長岡空襲の中、20粒の種子が生き残る。 |
越南17号 | コシヒカリの誕生物語は、昭和19年、新潟県農業試験場で、農林22号と農林1号を交配したことに端を発します。その後、福井県で試験品種として開発されたものが「越南17号(農林100号)」です。これが、後にコシヒカリと名付けられます。この越南17号は、「味が良い」という特長があるものの、いもち病に弱く、倒伏しやすい欠点がありました。 しかし、新潟県長岡農業試験場の職員:杉谷文之氏は、この越南17号に着目し、新潟の農業を救うべく「うまい米」を探していたのです。 |
越の国に光輝く | 魚沼にも、越南17号に着目した一人の青年農家がいました。 幸運なことに、魚沼の土地は、「越南17号」の生育には最適の土地でした。 越南17号は、新潟・千葉の2県での奨励品種決定を受けて、福井県で命名登録を行なうことになりました。 このコシヒカリこそ「日本一の新潟米」の名声を築き上げる基となった、稲だったのです。 |
自主流通米制度の 流れにのって | 魚沼米は品種の如何を問わず、もともと良好な食味を保持していました。 1969年に発足した自主流通米制度導入以降は、政府買入価格と魚沼産コシヒカリとの格差は最大2万円以上広がり、魚沼産コシヒカリが名実ともに日本一の米であることがうかがえました。 その価格差の裏側には、魚沼産コシヒカリに誇りを持ち、「多収を求めず、品質重視、安定生産に心がけた」魚沼農民の心意気と日々の努力がありました。魚沼産コシヒカリを生き永らえさせてきた最大の原動力であり、源泉でした。 |