上杉謙信と青苧(アオソ)

越後が生んだ名将、上杉謙信ほど生涯を戦いに明け暮れた人は少ないでしょう。

19歳で兄晴景に代わって春日山城主になり、49歳で亡くなるまでの30年間に、城を攻め、野に戦うこと70余度と伝えられています。

いつの世にも、いくさにはカネがかかります。
物資の現地調達にも限度がありますから、豊かな財力なくして長い戦いはできません。

上杉謙信のすぐれた戦略や戦術に興味を持つのもさることながら、上杉氏の戦力を支えた財政基盤を考えてみるのも面白いと思います。もちろん、越後という穀倉地帯を握っていたことが財力の根幹でしょうが、そのほかにあまり知られていない財源の一つがアオソだと言われています。

 

アオソというのは、カラムシとか苧麻(チョマ)と呼ばれる植物からとった麻糸のことです。この糸で織った麻布が越後の特産品となり、越後布と呼ばれていました。アオソと越後布の生産を盛んにした仕掛け人は、謙信と景勝の二代に使え、名家老とうたわれた直江兼続だと言われています。

兼続は上杉家の財政を豊かにするために、産業の振興に力を入れ、アオソや越後布の増産を図るとともに、アオソを専売制にして利益を独占したのです。アオソは関西地方の近江上布や奈良晒など各地の麻織物の原料として需要が高く、苧船という専用の運搬船で大量に出荷され、上杉家の重要な財源になりました。

 

 

アオソの経済的価値に目を付けたのは直江兼続だけではありません。
豊臣秀吉もその一人です。秀吉は慶長3年に上杉景勝を越後から会津へ移し、そのあとを部下の堀秀治に支配させました。この時、秀吉が堀氏に与えた知行宛行状を見ると、越後国43万石8500石のうち、5000石だけは秀吉の直轄地にしています。

その場所は「越後布の出る所とその廻り」と書かれており、検地帳に多くのアオソ畑が記載されている魚沼地方であったと考えられます。天下人である秀吉に自らの領地に確保するほど越後布とアオソは魅力のある財源だったようです。